新選組と流山
甲州勝沼にて官軍先発隊に破れた新選組局長近藤勇は、再起を図るべく慶応四年(1868)
4月2日 未明にかけて、総勢200余名を従え、流山へやってきた。
流山では醸造家「長岡屋」 (現流山2丁目秋元邸)に本営を置き、多くの隊士らは近隣の
「光明院」「流山寺」等に分宿した。
翌4月3日、この情報を得た西軍の先方隊が羽口(ばくち)の渡しや飛地山に砲列を敷き
包囲した。
この時近藤勇は「大久保大和」として幕府公認の治安隊であることを主張し、
武器を差し出し単身出頭した。
しかし、板橋へ向かう途中、元新選組局長近藤勇であることが露見し、
捕われの身となってしまう。
その後、土方歳三らは江戸にて勝海舟に近藤の助命嘆願するが、その思い通らず、
4月25日、近藤勇は 板橋宿にて処刑される。流山は新選組をつくりあげ、
幕末という激動の時代を駆け抜けた近藤勇・土方歳三 両雄の永遠の別れの地となった。
甲州勝沼にて官軍先発隊に破れた新選組局長近藤勇は、再起を図るべく慶応四年(1868)
4月2日 未明にかけて、総勢200余名を従え、流山へやってきた。
流山では醸造家「長岡屋」 (現流山2丁目秋元邸)に本営を置き、多くの隊士らは近隣の
「光明院」「流山寺」等に分宿した。
翌4月3日、この情報を得た西軍の先方隊が羽口(ばくち)の渡しや飛地山に砲列を敷き
包囲した。
この時近藤勇は「大久保大和」として幕府公認の治安隊であることを主張し、
武器を差し出し単身出頭した。
しかし、板橋へ向かう途中、元新選組局長近藤勇であることが露見し、
捕われの身となってしまう。
その後、土方歳三らは江戸にて勝海舟に近藤の助命嘆願するが、その思い通らず、
4月25日、近藤勇は 板橋宿にて処刑される。流山は新選組をつくりあげ、
幕末という激動の時代を駆け抜けた近藤勇・土方歳三 両雄の永遠の別れの地となった。